制作過程 – 第 2 部

(前へ) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 (次へ)

クリック:
制作チーム:最初に
制作チーム:震災直後のボランティア活動(東北)
制作チーム:撮影(東北)
制作チーム:編集(米国加州)
制作チーム:音響(東京)
制作チーム:ポスプロ(東京)
制作チーム:アニメーション(日本、韓国、中国)
制作チーム:詩の朗読
制作チーム:グラフィックス
制作チーム:記録・翻訳・字幕
制作チーム:エンディングロール
制作過程

マグニチュード9.0の地震が起きたとき、スチュウは東京のビルの49階にいた。まるで嵐の中の小型ボートに乗っているようだった。東京は恐怖に包まれた。しかし、それはその30分後から東北の沿岸部の人たちに悪夢をもたらせた津波とはまったく比べ物にはならなかった。

携帯電話がまったく通じなかったため、スチュウはインターネット(Skype, Twitter, Facebook, email)で友人とコンタクトを取った。東北地方の津波の映像がNHKで流れると、誰もが目を疑った。スチュウはその瞬間、東北へ行き、ボランティアをしようと決意した。

shida_stu_20110315_web_bugなんとかして東北に行く方法を模索していたスチュウだが、道路はふさがれ、電車も飛行機もまったく動かない。そんな中、親友の尚志が非営利団体JENで働く小松氏を紹介してくれた。JENは震災直後から救援物資を被災地へ運搬しており、ちょうど3月14日出発の運搬を手伝える人間を探していた。スチュウはすぐに志願し、必要最小限の荷造りをし、連絡が来るのを待った。そこに連絡が。スチュウは信太氏とともにガソリン、野菜、1.2トンの米をトラックに積み、宮城へ向かった。“緊急車両のみ”通行が許可された道路を丸1日走り、仙台にある陸前高砂中学校に到着。雪の降る中、1000人以上が避難している体育館に物資を運んだ。被災者たちはその夜、震災以来初めてあたたかいご飯を口にすることができた。最初のミッション完了。

SAMSUNGスチュウは状況をあまり理解しておらず、信太氏の指示に従うことしかできなかった。しかしボランティアの経験は彼の人生観を完全に変えた。そして被災者からも多くを学んだ。

スチュウは、が最初のミッションから東京に戻るとすぐに世界に向けて東北の子供たちのための応援のメッセージを呼び掛けた。手紙でもアートでも写真でも何でもいい、被災した子供たちのために何かを送ってほしいと。

p4j_tohokuletters_web何百通もの手紙や小包が届いた。世界は日本を応援していた。日本のために祈っていた。“Pray for Japan”は単なるツイッターのミームではない。世界の人々の心からの想いだった。(写真は世界中から届いた手紙。スチュウと和気氏が東北の子供たちに宛てた手紙を読んでいる。)

p4j_tohokuletters01_web

p4j_takefuku_ishinomaki_webその後、スチュウは、親友、竹田尚志氏の家族が経営する店、竹福が5000個の高級ハンバーグを被災者に寄付してくれたため、大勢の友人を伴い、宮城県石巻市に炊き出しに行った。三陸沿岸部に位置する石巻市の被害は想像を絶していた。

スチュウの親友、レイ・クラインも炊き出しに加わった。仲間たちですべて準備し、調理し、そして被災者にあたたかいハンバーグを配った。被災者たちはとても喜んでくれた。

その旅でスチュウは遠藤氏と知り合った。彼は自身が被災者でありながら、同郷の人たちや他の被災者たちのためにボランティアをしていた。遠藤氏はボランティア仲間の阿部氏(リーダー)、門間氏、横田氏そしてM’s Japan オーケストラのミュージシャンの方々と一緒に炊き出しの手伝いをしてくれた。

炊き出しで話をするうち、遠藤氏はスチュウが映画制作に携わっていることを知り、東北でのことを記録するドキュメンタリーを撮ってはどうかと提案した。スチュウは被災者の気持ちを逆なでることになるのではと躊躇した。それでなくても不安を抱えている被災者たちに、インタビューなどして大丈夫なものかと。

その一方、NHKがすばらしい記録映像を撮っていたのも知っていた。

決意できずにいたスチュウに遠藤氏はこう言った。スチュウの視点から撮るドキュメンタリーはテレビとは違う、独特なものになるはずだと。テレビでは映し出せない、被災地の物語を撮ることができると。

TokyoPopShutdownその翌日、東京に帰る道中、スチュウとレイはドキュメンタリーの概要について話し合った。当時、スチュウの人生は大きく変わりつつあった。一世を風靡した彼の会社、TOKYOPOPのロサンゼルス事務所は閉鎖することになっていた。そんな中、震災のドキュメンタリー映画の制作は人生で何が大切なのか、スチュウに考えさせることとなった。レイは制作費の半分を出資し、スチュウを後押しした。スチュウは決意した。スタッフを組んで撮影に東北に戻ってこようと。

復興が始まっているので撮影するなら急がなければいけない。そうレイに促され、スチュウは東京に戻るなりすぐ、親友の和気智之氏に連絡した。彼はスチュウの過去の作品、「ヴァンヴォンハンター」や「全米一オタク」の制作でも協力してくれた。和気氏は早速スケジュールを調整し、スチュウとともに3週間、東北に滞在することにした。スチュウはキャノン5Dと小さなザクトと音響機材だけを持って、ガソリンが不足していたのでプリウスの中古車をレンタカーし、JENの協力を得つつ、4月の上旬、和気氏とともに再び東北に向った。

(前へ) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 (次へ)