制作過程 – 第 3 部

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制作チーム:最初に
制作チーム:震災直後のボランティア活動(東北)
制作チーム:撮影(東北)
制作チーム:編集(米国加州)
制作チーム:音響(東京)
制作チーム:ポスプロ(東京)
制作チーム:アニメーション(日本、韓国、中国)
制作チーム:詩の朗読
制作チーム:グラフィックス
制作チーム:記録・翻訳・字幕
制作チーム:エンディングロール
制作過程

waki_audio_tiny仙台市内では、ラブホテルのオーナーたちが震災直後から非営利団体JENのためにホテルの部屋を解放してくれていた。彼らはスチュウと和気氏にも制作拠点となる部屋を貸してくれた。ラブホテルは本来、回転をよくして利益を出すため長期滞在客は商売にとっては望ましくない。それなのに彼らはスチュウらに快く部屋を貸してくれた。このようなお互いに手を差し伸べる精神が震災後の東北ではそこかしこで感じられた。(タラコちゃん、ありがとう)

撮影は4月から5月にかけた5週間、そして一度東北を離れ、再び夏まつりの時期に1週間、行われた。最初の3週間、クルーはスチュウと和気氏のみだった。スチュウが撮影、和気氏が音響を担当した。インタビューは三脚をスチュウの横にセットし、そこにカメラを置いて話を聞きながら撮影した。二人は被災地を歩き回り、人々や被災地の様子を日々、撮影して回った。(写真:和気智之)
ボランティアの人たちが炊き出し、泥やがれき駆除、その他さまざまな手伝いをしているのをカメラに収めながらスチュウは自らも被災者のために活動したいと考え始めた。撮影しているだけでなく、自分もボランティアをしようと。

ある程度の映像を撮るとスチュウと和気氏は機材を置き、ボランティア活動を始めた。救援物資を運搬したり、食事を配ったり、掃除をしたり。被災地は泥だらけで機材は常に泥まみれになった。残念なことに二人がボランティアをしていた映像は一切ないが、その時間はとても貴重なものだった。人々が悲劇を乗り越えるのをただ傍観しているのと、実際、仲間になり、一緒に戦うのとでは大きな違いがあった。スチュウはボランティア活動がどれほどの意味があるかを身を持って知った。決して自己満足などではない。一員となって戦うことなのだ。

仲間になったことでスチュウの撮ったインタビューは突然やってきた映画制作者がインタビューしたものでは語られなかったであろう本心が切々と語られている。

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(写真:気仙沼にてスチュウと学生二橋晋氏)

スチュウと和気氏は毎朝6時に起き、機材を車に積み、途中セブンイレブンでおにぎりとコーヒーを買い、滞在先の仙台から2時間半ほどかけて石巻へ通った。高速道路は救援物資を運ぶトラックで渋滞していた。電車は一切、動いていなかったのでほかに方法はなかった。
移動中もスチュウにとっては仕事の時間だった。運転しながらTOKYOPOPのロス事務所のスタッフと電話会議をし、会社を閉める手配を進めた。また、それが終わると和気氏とその日の動きの打ち合わせをした。その日、どんなことが予定されていて、誰にインタビューして、どのような映像を撮るか、車の中で話し合った。石巻に着いても二人に休息の時間はなく、計画に従い、石巻の被災地の崩壊した道路を車で回り、撮影を続けた。
どこも泥だらけでしかもとても寒かった。昼食は避難所で出される小さなカレーライス1杯か、セブンイレブンで買ったクラッカー。時が経つにつれ、店も開店し始め、食料が手に入りやすくなっていった。撮影は夜まで続いた。毎晩行われる非営利団体のミーティングを撮影したり、別のイベントがあればそれを撮影していた。二人は渋滞を避ける意図もあり、10時前に仙台に戻ることはなかった。仙台に戻るのは大抵、12時過ぎだった。その後、2時間ほどかけてデータを送ったり、バックアップを取ったりして、結局睡眠時間は3、4時間しか取れなかった。
スケジュールは厳しかったが、清潔なベッドと熱いお風呂があっただけでとてもありがたく思えた。避難所にいる被災者たちは大変な思いをしていたのだから。そんな体験が二人の人生観を変え、自分の恵まれた環境を当然だと思ってはいけないのだと実感した。

stu_waki_anees_ayaz_2011ボランティアを経験してもっともよかったのはボランティアのメンバーを初め、被災者の方々や非営利団体の人々などと一体感が生まれたこと。東北では顔を合わせると顔見知りでなくてもお互いに“お疲れ様です”と声をかけ合う。それが強い絆を作っていた。まるでみんながひとつのゴールに向かって一緒に働く、大家族の一員であるかのようだった。スチュウと和気氏も家族の一員となれてとてもうれしく思っていた。そして会う人会う人に“お疲れ様です”と声をかけた。
撮影から3週間過ぎたころ、和気氏は東京に帰らなければならなくなり、スチュウは地元の大学生で、家を失った氏家宏美氏に手伝ってもらうことになった。彼は音響機材を扱った経験はなかったが、被災者救済のため、短期間であっても仕事を提供できればとスチュウが配慮したのだった。和気氏は氏家氏に一通りの仕事を教え、和気氏が帰った後、スチュウ、氏家コンビの撮影がスタートした。氏家氏は地元の考え方や習慣などをスチュウに教えてくれ、二人は先輩後輩の強い関係を築いた。

endo_cocoa_20110729_webスチュウたちは遠藤氏や古内氏(スチュウはフルーツちゃんと呼んでいた)やほかのメンバーと再開したレストラン、まる松で夕食をすることもあった。スチュウは遠藤氏のうさぎ、ココアちゃんがお気に入りだった。ココアちゃんはとても人懐っこいウサギで、スチュウはよく、地元で獲れた人参や大根の葉をあげた。遠藤氏は被災者の心を和ませるため、避難所にココアちゃんをよく連れて行っていた。ココアちゃんはまさに“セラピーウサギ”だった。本作品のカメオ出演者としてクレジットもされている。
5月初頭には十分な映像が取れていたが、スチュウは全体をつなげるキーとなるものがないと感じていた。インタビューした人数は30人を超え、それぞれが30分は話している。しかしそれをどのようにつなげればいいのか。和気氏は東京に戻る前、鯉のぼりをテーマにしてはどうかと提案していた。子供の日の鯉のぼり。

子供が健康に育つよう、願いを込めて揚げる鯉のぼり。東北の人たちが震災を乗り越え、一日も早い復興を願い、鯉のぼりを揚げる姿はまさに映画のテーマにぴったりだった。

SAMSUNGスチュウは鯉のぼりについてネットで調査をした。そして地元の高校生、伊藤健人君が、亡くなった5歳の弟、律君のために全国から寄せられた鯉のぼりを揚げるイベントを企画していることを知った。偶然、発見したのだが、そこに偶然が重なった。なんと、健人君のイベントに宮城出身の和太鼓のグループ、M’s Japan Orchestraが支援をしていた。

スチュウはドキュメンタリー映画を撮ろうと決めた直後、竹福の炊き出しをした際に、和太鼓奏者、千葉秀氏と石田陽祐氏に会っていた。そのとき、彼らと一緒に写真を撮り、彼らの太鼓にサインもしていたのだ。早速、彼らにメールをすると、千葉氏から折り返し電話があり、“スチュウ、ちょうどよかった。手を貸してほしい。”と。その数日後、スチュウは伊藤健人君とM’s Japan Orchestraのメンバーと200個の鯉のぼりを揚げる準備をしていた。

5月5日には多くのテレビ報道陣や地元の被災者たちがイベントに集まった。健人君、M’s Japan Orchestra、そしてスチュウは健人君の家の跡地に200個の鯉のぼりを揚げた。そしてM’s Japan Orchestraが健人君を交えて太鼓の演奏を行った。とても感動的で、魂をゆさぶるセレモニーで「Pray for Japan ~心を一つに~」のクライマックスとして心に残るシーンだ。

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(写真: ケン・ペクター、東松島市の伊藤健人君の自宅跡地で。)

撮影はいったん、5月14日で打ち切り、スチュウは5週間、戻っていなかった東京に戻り、そのまま編集作業に当たるため、出身地ロサンゼルスに飛んだ。数か月後、石巻川開き祭りを撮影するため、石巻に戻った。2011年の祭りは津波で亡くなった方々を追悼する意味も込められていた。

この滞在でも、またタロコちゃんがラブホテルを提供してくれた。この撮影にはスチュウの親友、ケン・ペクターが同行してくれ、撮影に協力してくれた。

石巻ロケチーム

撮影: スチュウ・リービー

音響: 和気智之、氏家宏美

スチールカメラ: 二橋晋

制作アシスタント: ケネス・ペクター

協力: 藤井章夫、藤保修一、木藤幸江、大塚美幸

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